三条まちなみ再発見?調査報告会

昨日は中心市街地歴史的建造物調査報告会に出席してきました。
三条市が長岡造形大学平山研究室に調査を依頼したもので、三条市民も市民調査員として加わり2カ年計画で行う事業の1年目の中間報告です。
まず最初に平山教授による基調報告が行われました。
 
その論旨は以下の通りです。
 
1年をかけて中心市街地1542件の調査を行ったところ戦前からある建物は17%にあたる254件。
佐渡両津の30%から比べると少ないが、全体的に見ると多い方ではないか。
三条市の場合、古い建物が中心市街地全体に散らばっている。
明治13年の三条大火以降30年までに街のほとんどが1回は消失の憂き目にあっており、現存する建物は全て明治中期以降のものと推測される。
中心市街地は五十嵐川と共に発展しており、小路は五十嵐川と平行に通る大通りを交差するように川へと向かうが、当時、三条市の井戸水の水質はあまり良くなく、市民は朝 五十嵐川へ小路を通って水汲みに行く事が日課であったという資料が残っている。
生活に密着した小路は名称が付いているものは70近くあり親しまれている。
小路の変遷をみると商家の衰退により屋敷を切り売りし、通り土間が小路化したケースが見受けられる。
そういう意味で小路は街のしわとも言えるかもしれない。
三条の町屋造りの特徴として通り土間は東側に配置され、中庭は西側、通り土間側に高窓を配置する事で屋内への太陽光の導入が計画されている。
道路側から店、チャノマ(応接間)と配置されているが、チャノマは吹き抜けにすることで高窓とあわせ太陽光導入を行う。
建物の年代は桁の高さでおおよそ推測できるが、それは柱加工の工業化によるところが大きい。
基本的に和組みの構造ではあるが、合掌造りに見られる扠首(さす)が見られる家があるが、道路面だけにしか無いとか、構造ではなく意匠的要素が多い。
三条の町屋は妻入りが基本だが、昭和初期から入母屋がデザインとして取り入れられる。
また入母屋の屋根に対し船枻造り(せぇがいづくり)というのは三条にしか見られない独特の様式であるが、当時 関東大震災の復興の為、三条の金物や大工が関東の文化に触れる機会が多く、関東のお屋敷造りである船枻造りを妻側に取り入れたのではないか。
以上
大学はあくまでも素材を調査抽出するだけである。
いわば材料の提供であって、それを料理するのは当事者である市民および市であると締めくくられたのはとても高感度が高いですね。
他所でも言っているような提言をしていく先生も多いですから。
 
今回の報告から私が得た情報としては
三条市に良寛の記憶としての建物は存在しない。
三条独特の様式である入母屋船枻造りや扠首から三条人の見栄っ張り気質が見受けられる。
何も動かなければ、ますます街にしわどころかシミのような空洞が増えていくだろう。
ということでした。
 
この発表会に参加した人たちを眺めるに高齢者ばかり。
多分、今回調査対象になった家の人たち?
若手といえば大学の学生でしょうかね。
本来再発見してほしい対象となる人たちの参加はどうも無かったようですね。
それは広報の仕方が悪かったのか?若者に興味が無いのか?
私も10年前くらいはこうした市の開催する街づくり委員会的なところにさんざん参加していましたが、変わりませんね。
10年前とやっていることはいっしょ。
せいぜい調査結果を冊子にして市長に届けるというだけ。
それが街づくりに生かされたことはありません。
先日まで参加していたユニバーサル評議会で私が常に提言し続けたトイレの在り方だって何もなっていない。
いつまでこうしたマスターベーションを続けるのだろう?
調査事態はとっても重要です。
しかしその調査結果を使わなければ何にもならない。
平山先生のおっしゃる事はまったくその通りで、多分、そういう調べさせっぱなしの行政と多くの調査をされたんだろうなと推測されます。
 
歴史的建造物の保存問題は建築家協会でも大きく取り上げているテーマのひとつです。
しかし、ノスタルジーといった部分だけでそれを語っても意味がありません。
街は常に成長しており、その必要とされる為に変化をするのですから。
新しい小路が出来上がっていったように。
「街の記憶」とその継承をテーマにすることが大切です。
そして法規制の壁も同時に考えていかなければ絶対保存すら出来ないでしょう。
市の一部署だけで考えても駄目なんです。
 
観光資源?町屋の商業的利用?
そんなことでは街づくりを考えたって無理。
三条市は観光都市にはなれません。
それより住みたい街にしませんか?
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