法話

おとといは隣の家のおばあちゃん、昨日はお茶の師匠のお母様。
二日連続の通夜だった。
このところ葬儀参列がやたら多い。
自分も歳なのかなぁと感じる。
ところで通夜式と言えば坊様の法話だが、最近どうも外れている。
話の上手い坊様が減ってしまったのか、聞き手のこちらが擦れてしまったのか。
まあ、どちらも当たっているのだろう。
坊様も世代交代で若手が出てくるから、もう下手したら年下だ。
行を積んでいるかもしれないが、人生経験はこちらのほうが豊富なのだ。
日ごろ仏事にはまったく関心が無い生活を送っているので、こんなときぐらいしか仏の教えをいただける機会は無い。
大した信心を持たない参列者に故人を偲びながら仏の教えを判りやすく伝えるのが法話だと思うが、聞いていて何が言いたいのか判らないのが多い。
坊様も特に故人と生前親しくしていた訳でもなく、死んで葬儀社に呼ばれただけだ。
彼にとっても日常の業務に過ぎないのかもしれない。毎日ある葬儀で知らない故人を弔う。
順番にネタ帳(失礼、法話集)から話をしているだけなのだろう。
だから話の内容がちんぷんかんぷんになってしまう。
もともと仏事とは希薄な上、コミュニティーも無く、何とも寂しい世の中である。
子供の頃はあの長いお経を聞くのが苦痛だったが、今は椅子に座っていれば良い。
もしかしたら法話を聞くのが一番苦行なのかもしれない。
カテゴリー: つぶやき パーマリンク

コメントを残す