母校百周年

NY原油先物がいよいよ145ドル/バレルという史上最高値をまたしても更新した。
ガソリン価格200円/㍑はほぼ現実のものとなったろう。
灯油価格も需要期には160円オーバーとなりファンヒーターよりも最新型のエアコンによる暖房のほうがコストは安くなりそうである。
記録更新はスピード社の水着くらいにしてほしいものだ。
 
さて、昨晩は母校の百周年記念事業実行委員会が行われた。
学校、PTA、後援会、同窓会の4者による共同会議だ。
私は記念事業係だが、どうも私のところだけ議論になる。
事業規模も大きく一番派手な係だからしょうがない。
昨年来の会議で、百周年を向かえる学校に何を贈るかを議論してきた。
学校で学生、教職員にとったアンケートでは屋外照明がほしい、外部トイレがほしい、部室がほしい、シャワーがほしいというのが多数を占めていた。
おそらく切実なところだろう。
ただ、それらは皆、備品である。
10年単位の周年事業ならまだ判るが、1世紀の節目を迎える学校に100年単位の贈り物にしてはあまりに一過性ではないか?
事業係の会議ではその辺が議論され、短命な物ではなく、世紀をつなぐ環境教育の場としての学校林の整備を提案した。
現在ある中庭の再開発だ。
屋外施設を作るなら、そこに土を盛り、中庭に傾斜のある地形を作る。
土を盛り、緑化した屋外施設は気化熱のクーリング効果が期待できるだろう。
太陽光発電パネルを設置し、バッテリーに蓄えることで学生が活動している間くらいの通路の照明も賄えるかもしれない。
輻射熱を利用した冷蔵庫なんかも設置できるかもしれないし、積もった雪の冷熱利用も模索できよう。
太陽光で作った電気で水を循環させ、ビオトープも期待できる。
植生を生かした学校林は学生たちに将来を語り合う憩いの場を提供する。
消費拡大こそ幸せという今までの価値観を壊し、これからの100年を新しい価値観で創造する人材の育成。
これが事業係の提案となった。
ところがこれらの構想にもっとも反対するのは学校当局だった。
彼らの要求は目の前に逼迫した物であり、これ以上自分たちの仕事を増やしたくないという気持ちだ。
反対派はその反対する理由を一生懸命ぶつけてきた。
役員の一人が「贈りたい側のエゴと受け取る側のエゴで平行線のままだ」と酷評したが、エゴを私利私欲という意味で表現したのなら、受け取る側はエゴかもしないが、贈る側は母校に対する想いでありエゴではないと思う。なぜなら送る側にとっては何の利益も存在しないのだから。
PTA,後援会、同窓会は本人または子供が永劫、学び卒業した学校としての関わりを持ち続けるが、教職員側は実際のところ数年後は転勤する一過性のサラリーマンでしかない。実際のところ、求めてわが校に赴任したものはどれくらい居るのかも知れない。
事業係として第2回目の全体会議で学校林の方針を決議して頂いたが、第3回目の会議では参加者も入れ替わり、また新しい参加者の意見で振り出しに戻る。
意見は真摯に受け止め、事業に繁栄させたいが、第2回目の決議を継承されないようでは全体会議をやる意味もなかろう。
このまま事業係が暴走するなら、今後、周年事業に対する協力をする気は無いと言い切る職員が居たのには驚いた。
暴走しないように意見を述べてもらうのはありがたいが、役員を任命されたのに自分の意のままにならなければ(つまり学校の要求が満たされなければ)降りるというのは職務を果たしているとは言えない。
上下無く同じ立場なのだから、きちんと意見及び代案を出し、議論のテーブルに着くべきである。
これが教育者と呼ばれ、後輩たちの指導に当たっているのかと思ったらがっかりした。
学生たちへの環境教育よりも教職員への教育のほうが先決だ。
良い学校とはなんだろう?
私の子供はまだ小さいが、少なくともこの教師の居る学校には進ませたくないと思う。
子供たちが進学したくなる学校になってほしいとの想いが今回の提案であったが、そういう話の前に現場職員の改革をしてほしい。
母校百周年は前途多難である。
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