生活が見えない

先日、ケアマネから利用者の家を新築するのだが、その身体機能を考えると疑問が多い間取りなのでチェックしてもらいたいという依頼があった。
時間を調整してそのお宅をケアマネと一緒に訪問した。
見せてもらった図面はよくチラシに入っていそうな間取りだった。
違っていたのは玄関の土間部分に急なスロープと玄関ポーチにスロープが付いていることだけだ。
利用者が車椅子だということだけでそうした提案が安易になされたのだろう。
しかし玄関内のスロープは勾配が強すぎて使えないだろうし、玄関外のスロープもリュウマチを患う妻の介助では大変そうだ。
廊下も段差はさすがにないが、各部屋へは直角に曲がらなければならず車椅子では困難だ。
リュウマチの妻も直角に折れ曲がる動線では将来大変だろう。
それより問題なのはこの夫婦、家族がこの新しく出来る家でどういう生活をしたいのかということがなにも図面から伝わってこないことだ。
建築業者が売り急ぐあまり、その家族のニーズをなんら引き出さず、自分たちのプランを押し付けている。
家族も素人だからうまく引き出してもらわないと何が重要なのかわからない。
結局、今と大して変わらない家が小奇麗に出来るだけだ。
2階には子供部屋が2室あるが、ここに住む住人は息子35、娘30だ。
イッパシの大人が中学生じゃあるまいに8帖の部屋で何をするというのか?
子供たちは新しい家造りには何も関与していない。
将来、どちらかの子供が家に残ってくれることを病気の親は期待するが、この二部屋で世帯を築くことは難しいだろう。
2階に子供部屋という設計に何ら疑問を持たない業者は施主の人生に興味を持っていない。
この間取りで対応できるのは30~40代の子育て世代がやっとだろう。
第二の人生を迎えた熟年世代の間取りでは少なくとも無い。
受注すると言うことばかりに一生懸命で顧客のニーズを聴くことなく決まりきったプランを提案する。
クロージングは展示会をさせてもらう代わりの値引きだ。
奥さんは乗り気だ。
 
重要なのは生活をデザインすることだ。
設計の作業はそこに多くを割き、図面化なんてその最後の段階だ。
しかし設計無料の工務店からはいきなり図面が出てくる。後は値段交渉。
こうしてただ雨露をしのぎ、飯を食らって寝るだけの箱が増産される。
 
一応問題点を挙げ、家造りは家族全員で考えてはどうかと提案したが、家に寄り付かない子供たちと今月中に契約したら大幅値引きの工務店の前に建築家は無力だったかもしれない。
希薄になってしまった家族にとって住まいは求心力にはならないのか?
そんなことは無い。
少なくとも一生の稼ぎを投入する大事業だ。
この家族が家を造るということは生活を造るということだと気がついてくれれば、きっとすばらしい設計になるだろう。
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