国語力、数学力

一級建築士の設計製図コースを担当していて常に感じるのが生徒の国語力のなさである。
問題文が何を指示しているのかが読み取れないのだ。
クライアントの希望を読解できないから、見当違いのエスキスになってしまう。
昨日はケアマネ対象の福祉用具・住宅改修講習の手伝いに行ってきた。
カリキュラムは対象者を支援するために問題点を抽出し、それに対するニーズを絞り込み、その援助について長期的、短期的に提案するという内容だ。
問題点の抽出もあやふやで、それに対するニーズが認識できない。
大抵のケアマネの思考はこうだ。
トイレが一人では行えない→一人で行えるようにしたい。
これでは素人がただ家族の話を御用聞きのように聞いてきただけだ。
Needs(必要なこと)ではなくHope(希望)である。
トイレが一人で行えない現実は誰が見ても明らかであり、その原因を見つけるのが問題点の抽出である。
例えば歩行困難なうえにトイレまでの移動距離が長いというのは問題点として指摘される。廊下の段差もそうだ。
だとすればニーズは安全な移動の確保だろう。
また排泄の自立が出来ないと言うのは家族への介護負担も大きい。
その理由のひとつに麻痺のために一人で着衣の脱着が行えないというのもあるかもしれない。
ならばニーズは着衣の脱着の自立になるのかもしれない。
これらの解法は数学の連立方程式や因数分解に近いのかもしれない。
一件複雑な要素を分解し、単純にする。
これがニーズを絞り込む作業だ。
どうも理系区職の人間には国語力が足りず、文系職には数学的思考が足りない。
小中高の基礎学力が単にテストでよい点数を取ることだけに終始され、理解すると言うことを置き去りにしてきた結果なのかもしれない。
今にして思うと、学校の勉強(思考するという勉強)は社会に出て役に立つ。
まともに学歴をもってしてもこの程度とすると、ニートと呼ばれる層の社会参加は望むべくもない。
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