茶家に茶を贈るべからず...何故?

今日は2週間振りのお茶の稽古でした。
先生は稽古に入る前に利休百首の解説をして下さいます。
今日も一首お話されたあとで、百首には入ってはいませんがと前置きされ、

「茶家に茶を贈るべからず。」

という言葉もあります。
とおっしゃいました。
お茶をやられている方は、好みのお茶があるので、それを無視してお茶を贈るのは失礼だし、贈られても困るとのこと。
いつものお話は良く理解できるのだが、今回はどうも理解出来ない。
どんなお茶の名人といっても世の中のすべてのお茶を飲み尽くしている人など居る訳も無く、新しい味との出会いはむしろ幸せに感じるのではないか?少なくとも私は頂いて嬉しいです。
兄弟弟子も先生の説明は理解できると言っておりましたので、多分理解できないのは私だけなのかもしれません。
幾つかの例を頭の中で考えてみますが、どのパターンでも頂いて迷惑というのは思いつきません。

例えば私のお好みのワインはボルドーの赤です。
自分で買うときは大抵ボルドー。
シャトーはいろいろ変えてみるけど、ボルドーであまり外したことは無いのでやっぱりお好みはボルドー。
だからといって、ドイツやイタリア、チリや南アフリカのワインを貰って迷惑なんてことはありません。
むしろ自分でお金を出さなくても味くらべが出来るから嬉しい。
それが美味しかったら、今度は自分で買うだろうし、美味しくなかったら自分では買わないだろうというだけのこと。

「どうも判りません。」と言ったら、「それはまだ極めていないから。」と言われて、そりゃ反論できません。
でも私も一応50年近く生きていますので、それなりに色んな体験は積んでいるつもり。
未熟と言われるとちょっとショックですね。
私の専門分野といえば建築ですが、素人のクライアントから耐震性能だとか高気密だとか、TVCMで聞きかじったような事を意見されると、「そのようなことは専門家におまかせください。それよりどんな生活をご希望ですか?」と返す事があります。それはいわゆる「釈迦に説法」。
でも先生に「そんな感じですか?」と言うと、どうもそれとは違うらしい。

家にもどって、いろいろ検索をかけてみるけど、この格言(?)がなかなか出てきません。
うーん、不完全燃焼だ。
2週間ぶりのお茶なのに、どうもスッキリしない。

「書家に墨を贈るのはどう思いますか?」
と先生から例えを出されましたが、私は書家ではないので単純に嬉しいと思います。実際、書家の人は嬉しくないのだろうか?

専門家に素人が知ったかぶりして相手の専門性に関わる贈り物などしても恥をかくだけだという処世術みたいな感じで捉えておけば良いのでしょうか?
もしお茶の先生が習った上の先生から「このお茶は飲んだことある?」なんて感じで遊びに来た際にお茶を持ってきてくれたらどう?
お茶の先生同士はそんなやり取りはしないもの?

贈って頂いたものは、その気持ちに感謝しつつ、それが新しいお茶との出会いであれば喜ぶくらいではダメですかね。
どなたか人生経験の乏しい、未熟な私にご指南ください。

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