父の死

父が19日6:59死去した。
療養型病床に移って僅か2度目の朝も迎えることが出来なかった。
容態が安定してきて、長期化する傾向になったということでの移転だったのに何故という感じである。
前日、すこし容態が悪いのでナースステーションの近くの個室に移したという連絡が入り、母と慌てて駆けつけた。
父は薬のせいで眠っているようだった。
前日、3ヶ月ぶりに風呂に入れたのだが、それが体力を消耗させたのではないかという説明だった。
主治医もレントゲンを取り、肺に陰りは無く、一般病棟のときと替わりが無いという。
実は毎年行っている我が家の夏の旅行を18日の深夜出発のフェリーで始めたところだった。
新潟-秋田-苫小牧を結ぶ新日本海フェリーで道東キャンプ旅行を一週間楽しんでくる予定だった。
父が死んだという知らせは秋田港を出発した後で知らされた。
呼び出しのアナウンスを聞いた瞬間、そうかなと覚悟をした。
もう船は洋上で引き返すことなど出来ない。
どうやって家に戻ろうか思案した。
フェリーのスタッフは親身に対応してくれ、空路、陸路、電車などのシュミレーションを作ってくれたが、飛行機も翌日の午前便に乗れるかどうかだし、陸路にしても津軽海峡を渡らなければならないし、気持ちが動揺しているときの長距離運転は危険だ。結局、今乗っている同じ船で戻るのが一番ということになり、満員の帰りの便に無理やりねじ込んでもらった。
自宅では弟が通夜や葬儀の段取りをやってくれていたので、私は喪主の席に座り、挨拶をするだけで良かった。
20日の晩は父の隣で、父の顔を見ながら添い寝した。
苦しかっただろうに、思いのほか優しそうな顔で横たわっていた。
父の脇で寝るなんておそらく40年ぶりくらいではなかったろうか?
成人してからは家になんて寄り付くことは無かったし、父親と遊ぶなんて小学校くらいが良いところである。
通夜の席で父の思い出話をと思ったが、大人になってからはたいして家族旅行もしなかったので話すことも無いなと父の顔を眺めていたら、突然涙が溢れてきた。
今、自分は子供が大好きで、息子の夏樹をいろいろなところに連れ歩いているが、私が夏樹ぐらいのとき、やはり父は私のことを同じように可愛がってくれた。
すっかり記憶の奥にあった思い出が突然堰を切ったように思い浮かんできたのだ。
月並みだが、子を持って知る親の恩というやつだ。
それを父が死んだ後で骨身にしみた。
葬儀は段取りどおり、粛々と行われた。
ほとんど何もしなかったが、喪主としての役割だけはきちんとすることが最期の孝行と思った。
久しぶりで集まった学生時代の友人たちにも随分世話になった。
もう、祝いごとで集まるよりこんな風にしか集まれない世代になったのもなんとも寂しいことだ。
無事、一通りの祭事を済ませ、あとは初七日まで静かに過ごすことにしようと思う。
47年間私に付き合ってくれた父に感謝したいと思う。
最期はあまりにあっけなかったが、これで「楽になれたのよ」という妻の言葉通りだろう。
父の闘病生活は生きることや死をいっぱい考えさせてくれ、ようやく終わった。
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