自分から見えなければ良い?

週末を新車購入で騒いでいたら、今朝家庭菜園の水遣りをしていてとんでもない光景を見ることになった。
お騒がせの隣人だが、例の違法建築の小屋と我が家の敷地、わずか1m弱の空間がゴミ屋敷と化しているではないか?
うちのデッキのラチスにも寄りかからんと、捨てればよいのに捨てられないゴミの山になっている。
まあ、自分の家からは見えない部分にゴミ(隣人にとっては資源なのだろうが、我が家から見る限りではゴミ)を積んでいるということだ。
 
この隣人、田舎の出身なのだが、町に来たら街に慣れて欲しい。
狭い敷地は全て道路と隣地が接しているのだ。
彼らのどうでも良い北側の小屋の裏は我が家の大切な南面のウッドデッキがある場所だ。
朝からいい加減にしろと怒鳴りたくなった。
そのうち生ゴミなんかも置くのかねぇ。
のびのびと田舎に住んだらよいのに。
 
見えるところだけきれいにするというのは心が貧しい。
どこを見られているかわからないくらいの緊張感を持って生活できないものか?
日中ジャージ姿で洗濯物を道路から丸見えの駐車スペースに干している隣人の妻からして緊張感が無い。
平日でもお洒落ぐらいしなさい!
まあ、そんなことはどうでも良いが。
 
きっと隣人の家に出窓があったら、出窓は物置なんだろうね。
でも部屋からはカーテン閉めて気にならず、外を歩く人は雑多な物置となっている出窓を見せられる羽目になる。
出窓は欧米ではそこの家の文化度の高さを競うショールームである。
いかにセンス良く飾りつけ、隣人を楽しませることが出来るかがその家の夫人のセンスのバロメーターだ。
日本の街並みを見渡すと、出窓の物置化は当たり前、玄関前が物置のようになったり散歩していても目を楽しませる光景は少ない。
ましてや隣人にそれを期待することは宝くじで3億円当てるより難しいのかもしれない。
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