我が家の介護

10日ぶりのブログになった。
今年のお盆は遊びほうけて過ごしたが、終わりに事件が起きたのだ。
実家の父親は若い頃結核を患い、片肺を切除した障害者である。
肺機能が半分なのにヘビースモーカーで生きている片方の肺も機能が低下している。
5年前のガンを機会にさすがにタバコは止めたが、70を越えた身体はすでにぼろぼろになっていた。
もともと映画好きで一日中ビデオを見ていたのだが、ほとんど身体を動かす事も無く廃用は進んだ。
仕事柄、どんどん老化する父の状況は良くわかったが、散歩しろとか、昼間は寝ないで起きていろという身内の言葉はなかなか聞いてもらえなかった。
結果として、父よりはるかに高齢の人の住宅改修をしている私から見ても誰よりも年寄り臭い男になっていった。
今年に入ってからは酸素療法も取り入れ、常に鼻にチューブをつけている。
肺機能が低下したものにとって肺炎はとても恐ろしい病気だが、身体機能の低下した父も常に風邪を引き、入院を繰り返していた。
 
そしてこのお盆のことだ。
弟夫婦も集まり食事会を実家で行った。
父も嬉しいのかいつもより酒が進んでいた。
楽しいひと時はそれで良いのだが、過ぎた酒は後で父の体調を崩す事になる。
ちょうど新潟は猛暑でエアコン無しでは生活できない状況だったが、エアコンの効いた部屋と効かない廊下での温度差は老体には辛い。
熱帯夜にエアコンをつけて寝た事で風邪を引いてしまった。
17日の夜、母から父が38度の熱を出したので明日の朝、病院に連れて行って欲しいと電話があった。
翌朝、実家に迎えに行ったが主治医は夏季休暇のため他の先生が診てくれて、結局安全をみて入院する事とした。
入院するといつも母が付き添いで病院にいくため、朝晩は送り迎えをした。
父は家にいるときは寝るときに眠剤を飲んでいる。
ものもと典型的なA型性格のため、寝むれないというのが恐怖なのらしい。
薬など、必要な時だけ飲めばよいのだが、父の場合、精神安定のために常用していた。
入院当初は母も昼間付き添い、夜は自宅に戻っていたのだが、日曜日の深夜,病院から電話がかかってきた。
母から電話が来て慌てて二人で駆けつけたのだが、父が奇行をするのだという。
入院で昼間も寝てしまうため、夜寝れず、それでも眠剤を飲んで中途半端に脳が覚醒するらしいのだ。
朦朧としている中で夢とも現実ともつかないような話や行動を行い、周囲の人に迷惑をかけたらしい。
母も看護疲れで風邪を引いていたのだが、結局朝まで付き添う事になり、私は一旦帰り翌日私が付き添う事になった。
月曜日の朝病院を訪ねたが、父は昨日の事は全然覚えていなかった。
しかし、生活環境が変わったためか、やはり精神状態は少しおかしかった。
そして本人は寝ていないと言い張るが、5時間ほど昼間寝た。
昼過ぎに看護婦長が来て、奇行が2日続いていて周りの人に迷惑なので個室に移ってはどうかと言われ部屋を替わる。
とりあえず、これで周りに神経を使わなくても済むだろうと父に大丈夫かと確認して夜、家に戻った。
そしてその夜11時、また病院から電話が入る。
母は具合が悪いので連絡は私に入るように病院に言っておいたのだ。
急いで駆けつけると父は廊下をさまよい訳の解らない言葉を口走っていた。
その姿は認知症の徘徊そのものだった。
とにかく病室に戻りベッドに横にしたのだが、個室に替わったことが朦朧とした父の頭の中でしっかり認識されていないようだった。
現状を受け止める事ができず、被害者意識だけが前面に出ていた。
その日は結局4時くらいまで20分と待たずに家に帰る帰らないの問答を繰り返した。
こちらはなだめているつもりだが、本人には虐待としか思えないらしく、その姿はまさに認知症そのもので息子として悲しかった。
4時にようやく寝付いたと思ったら5時半には起き出し、なんで母がここに居ないのかと騒ぎ始める。
母は疲れて家で寝ていると昨晩いい続けたのに同じ事しか言わない。
結局、自分の要求が満たされない限り、その先には進めないのだろう。
まだ朝早いから、日勤の看護婦が出てきたら母を迎えに行くからといっても聞いてもらうことは出来なかった。
6時半になりしょうがないので実家に母を迎えに行く。
父の朝食が始まり私は母と交代して自宅に戻る。
さすがに疲れた。
私は建築の学校が始まり、夜間と水曜、日曜は終日新潟に行かなければならず、父に付き添う事がなかなか出来ない。
火曜日も夜間授業だったので、昼まで寝て、数時間メール確認をした後病院に寄り新潟に向かった。
帰宅するのは11時過ぎだったが、一旦病院に寄り様子を見てから家に帰った。
母が付き添う分には精神状態は安定するようだった。
翌日は終日学校で電車で行くため7時には家を出なければならない。
しかし、母が毎日病院で生活するわけには行かない。
そこで夕方学校が終わり自宅に戻ってシャワーを浴びたらその晩は母と交代し病院に停まる事にした。
昨日の話しだ。
親子の関係とは何だろう?
長男の私が泊まるとなにやら緊張するらしい。
もう個室に移ってからは眠剤を飲まないようにしているのだが、10時過ぎにナースコールを押そうとした。
どうしたと聞いたら点滴を打たなければならないという。
もう就寝時間だし、処置は全て終わっているはずだと言っても聞かない。
しばらく問答を繰り返したら、勝手に部屋の外に出ようとした。
あまり抑制しても駄目だと思い、後ろから着いていくとナースステーションに向かった。
点滴をしろと言うのだが、それは夕方終わりましたよと宿直の看護師になだめられ部屋に戻った。
しかし、自分の要求を満たしていないのでどんどん心気的になっていった。
しまいには私に向かって何をたくらんでいるのだと言いはじめた。
企むも何も病気を早く治して欲しいだけだと言っても、母親を家に戻し、看護師と一緒になって自分に何をするつもりだとエスカレートした。
家に戻るというので先生から帰っても良いといわれていないだろうとなだめたがもう聞く状況ではなかった。
とりあえず看護師には言わないといけないよと言い、ナースステーションに行かせたが、看護師は巡回のため不在だった。
父がエレベーターに乗り込もうとしたので、それは少し力を入れて阻止した。
どんどん状況は悪化する。
父は自分の兄に電話し、息子に殺されるから助けに来てくれと哀願した。
殺されるといわれて正直ショックだった。
続けて実家に戻った母にも電話し、同じような事を言った。
すこしして叔父さんと母が駆けつけた。
母は家の仕事をしてようやくシャワーを浴びたところで呼び出された。
もう、精神状態がおかしいからお前はとりあえず家に帰れと言われ、自宅に戻る。
まあ、そのほうが良いのだろうが、母が大変だ。
このままでは多分、父よりも母の方が参るだろう。
 
今日の朝、正気に戻った父から電話が入り詫びられた。
 
きっと父の奇行は環境の変化と薬のせいだと思うが、日々の生活にも思い当たる事はある。
1週間程度の看病だが、親戚を含めみんなが本当に疲れている。
ようやく主治医が昨日から出勤し、これからいろいろ検査をするのでしばらくはこんな生活が続くのだろ。
これが我が家の介護のスタートなのかもしれない。
ほんとうに大変な事だと実感した。
 
介護生活が現実のものとなった。
 
 
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