住宅化する街

 

最近、若い娘が人前で平気で化粧をする姿をよく見かける。
これをオバサンの若年齢化と見る向きもあるようだが、私は別の見解をしている。
だから「あえての建築カテゴリ」とした。
 
昨日のコラムでオバサン化の特徴は他人を気にしないことであると書いたが、そういう点では若い娘の人前での化粧は同じ特徴を持っている。しかし、オバサンが電車の中で化粧をしているのを見たことが無い。
 
以前、建築家の安藤忠雄氏の講演会を聞いた。
そのときに氏が話していたのは住宅と街の関係だった。
日本人が家を考える時には自分の敷地内でしか考えない。
だから街の利用も街並みとの調和とも無縁だ。
郊外型の団地などはその良い例で、やっと持てた家の猫の額ほどの庭に池などを作ったりする。
街に住めば公共の公園があり、自分の家とは比較にならないほど素晴らしい環境となる。
例えば風呂だって、公共の風呂を使えばどれだけ水道が浮くことか。
街のインフラを利用する住まいこそ、自然に対しローインパクトなのだ。
どんどん積極的に街を利用しようというものだ。
ずいぶん前の講演なので私流に解釈した意訳と思っていただきたい。
 
そこで最近の若者だが、安藤氏の思想とはまったくズレたところで街を利用しまくっている。
「街の住宅化」だ。
最近の若者には「住宅」という入れ物の概念は希薄だ。
「住宅」「住まい」は家族の象徴とも言えるものだが、それが希薄と言うことは現代の家族のありようが非常に薄まっているとも言い換えることが出来る。
「住宅」の概念を持つ年齢層では化粧は自分の部屋でやるものと思っている。家を出たら家族以外の世界だからだ。
しかし、若者の行動パターンから推測するに、電車の中は自分の部屋の延長として機能している。
同じように、コンビニの前で座り込み、食事をしたりだべっているのはコンビニの前がダイニングでありリビングなのだ。
驚くことに最近の若者はどこでも寝てしまう。
家が遠いならホテルにでも入れば良さそうだが、眠たくなったところで、それが例え道であろうとも寝てしまえるのだ。
彼らが眠くなった場所は寝室になる。
 
日本の住宅が「何LDK」と称されるようになってから、単なる箱になってしまった。
家族がそこに集う理由も希薄になり、家という線引きがあやふやになった。
家が駄目になったから、家族が駄目になったなどと言う気はないが、「家族とは?」と考えないで建築はしてはいけない。建築を行う者は一度そんなことを考えながら若者ウォッチングしてみては如何だろう?
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